気難しい照明

舞台を構成する上で、ほぼ絶対いなくてはならないのが照明家である。

もちろん日中に青空劇場で芝居を行うのであれば、照明の必要はないが、そのようなケースは稀であり、舞台に演出の幅を求めるとなれば、出きるだけ光は自由に扱えなければならず、光を自由に扱うには、画家が白いキャンバスを求めるように芝居には闇が必要になる。その闇という真っ白な(真っ暗な?)キャンバスに絵を描いていくのが照明家の仕事である。
音響家と照明家、どちらがより必要か?どちらも舞台を構築していくのに欠かせない存在であるが、問われれば音響に携わる者としては悔しいが、照明家のほうにかなり分がある。
よく考えれば当たり前のことであるが、例え音楽や効果音は無くても舞台は成立するが、照明無しの舞台が成立するとは考え難い。

これが原因なのかどうか定かではないが、実は音響の私と照明家はあまり仲がよろしくない。(もちろん私の場合に限ったことかも知れないが)

照明家の場合、舞台全体の計画が1年前から進んでいたとしても、劇場が実際に使用できるようにならないと本当の照明の構成は出来ない。

劇場に実際に入れるのはどんなに条件が良い条件であっても1年も前から照明のシュートをさせてもらえる劇場など有得ない。果たして1ヶ月前に当たり合わせができる劇場が存在するのであろうかという感じである。

大手の劇団を除いたほとんど大多数劇団の場合、本番の数日前、下手をすれば前日、更にひどい場合には当日に初めて照明の当り合わせを行なって、本番に臨むという感じなのではないのであろうか?

従って実際に照明の当たり合わせを行なうまで、照明家は机上と頭の中で試行錯誤を繰り返していくことになる。 そういった厳しい条件の中で、照明家は毎回プランニングを行なっている。

音響から見ればこの状況はいささか気の毒ではある。音響は、上手くすると曲ありきで脚本が創られ、曲さえ決まってしまえば、本番の何ヶ月も前から実際に曲を流しながら稽古に臨める。

しかし照明の場合は劇場に入るまで、全ては照明家の頭の中で進められ、劇場入りしたとき初めて具現化する。 もちろん演出家とは事前に何度も入念な打ち合わせを行なっているはずだが、全てはイメージを言葉に置き換えてのコミュニケーションであり、とんでもない思惑の差がそこに存在する危険性を常にはらんでいる。
そのため照明家は劇場入りの日が近づくにつれ、段段と神経質になっていくのが見て取れるようにわかる。
当然、役者や他のスタッフも劇場入りが近づくにつれて神経質にはなるのだが、照明家のそれは他の者に比べ著しい部分がある。 実際、組んできた照明プランを演出家に見せる段になってそのプランを否定されてしまうこともよくあるようである。

しかし、この場合でも元の頭の中のプランがなければ再構築もできないので、否定の可能性を常に意識しながら準備をしなければならない。もちろん、いくら否定の可能性があるからといって当日即席にプランを組めるものではない。 そんな準備段階の環境の差から、舞台の仕込みの段階では、照明の当たり合わせが最優先され、最も多くの時間が割かれる。話かけるのもためらわれるくらい照明家と演出家はこの時間に神経を集中する。

演出家にとっても、照明次第で舞台のイメージが大きく左右される為に、照明合わせには神経を使い多くの時間を割く。

このギリギリの環境で常に勝負させられているのが照明家であり、気の毒なくらい神経質にならざるを得ないのが宿命である。

もちろん音響家にもレベル合わせや当たり合わせなどの作業が存在し、可能な限り多くの時間を割き、納得のいく準備を行ないたいのだが、上記のとおり仕込み作業においては照明のシュートやシーン作りが最優先作業となっている。

そのため音響のそれに割り当てられる時間は、悲しい程少ないのが現実である。

ともすればその割り当て時間でさえ、照明のシューティング作業の遅れで削られてしまうことも多々ある。しかしそうであっても、最初に述べたとおり、音響と照明どちらがより欠かせないかと問われれば音響は白旗を挙げなければならない立場であり、いつも溜飲を飲む状態である。

この辺りが音響の私が芝居のたびに照明家に対し、理解はしつつもフラストレーションを溜めているところであり、仲を遠ざけている原因である気がする。 この音響と照明の犬猿の仲、これは永遠と解決されない課題なのかもしれない。さてさてどうなることやら…。                     (つづく)

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