音響家は音楽家ではない

演劇で音楽や効果音を使うとき、ほとんどの場合は効果音CDや音楽CDのお世話になるわけで、自分が採集した音や作曲したり演奏した音楽を使用することは皆無ではないが、ほとんど稀なケースである。

特に私の場合に限って言うと、実は私自身、楽器も弾けなければ音符もほとんど読めない。おまけにカラオケも不得意と来たものだから、ほとんど音楽に縁のない人間の様相を呈している。そんなことだから、自分で作曲したり演奏したりする芸当は逆立ちしてもできない。

せめて耳だけでも鍛えようと、一度声楽家の知り合いに、「絶対音感」を今から身につけるにはどうしたらいいのかと相談したことがあったが、その年齢からじゃ無理とあっさりと断られてしまった。

そこで私は開き直ってしまった。どうせ多少なり演奏などの技術を心得たところで、モーツァルトやブーニンになれるわけでもないし、ましてや作曲家や演奏家が目標というわけではない。

演奏能力や絶対音感の有無は、舞台音響としての能力には関係ないと割り切った。もちろんあるに越したことはないのかもしれないが、私のような立場に必要なのは、音の正確さよりも、音から受け取る感覚を劇場という空間でどれだけ再現できるかということである。

絶対音感も、演奏家が音楽をCDに正確に録音しておいてくれれば私には必要ないし、美しい演奏や超絶技巧は音楽家に任せておく。

音響家はそれを選んで使えばよいのである。

もちろん世の中には作曲・演奏活動をしながら舞台音響に携わっている人も多々いると思う。ただ舞台音響の仕事というのは、音楽家の作った、努力の結晶であるはずの音楽を、己の都合で途中でブチッと切ったり、勝手に音量を上げ下げしたり、時には歪ませたり滑稽に扱ったりして、好き勝手に弄ぶのである。

私が演奏者や作曲家だったりしたらその仕打ちはきっと耐えられないだろうと思う程に…(詳しくは「音の加工の章」で)

無論私も、これは音楽への冒涜だなといつも感じてはいる。

私自身、音楽をすることはできなくても音楽そのものは好きだから、音、特に音楽を加工するとき心を痛めるときもある。

しかしそう思いつつも、舞台のために音楽家の努力を弄ぶ努力を日々続けている。

こんな私に音楽家と音響家の同居はできないと思う…(続く)

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