舞台を作っていくスタッフワークの中で、舞台の性質をほぼ100%方向付けていく人が演出家である。
というより演出家の意向があって舞台という機会が生まれるといっても言い過ぎではない。
もちろん最近のプロデュース制をとる舞台形態では演出家さえもその例外とならず、プロデューサーの意向によって決められる場合もなくはないが、現在多くの小劇場という形態においては、演出家という一人のカリスマによって舞台の方向性が決定付けられている場合がほとんどであるので、例えプロデュース制によって決められた演出家であっても芸術面では絶対的な権力をもっている。
この演出家、自己主張をして我を通すのが商売のようなポジションであるから、舞台製作の場においては、キャストスタッフかまわず自分の希望を要求してくるわがままなやつとなる。
演劇において、芸術面は演出家絶対主義が原則であるから、他のスタッフポジションは余程無茶苦茶な要求をしてこない限り、概ね演出家の意向に沿って仕事をすることになる。
例え演出家の要求がかなり理不尽なものとあっても悲しいかな職人気質のスタッフの面々はその要求に応えようとする。各スッタフのポジションのプライドにかけて「それは出来ません」とはなかなか言えず演出家の要求をこなそうとするのである。
その苦労を知ってか知らずか、さらに演出家は平気でスタッフに無茶苦茶な要求をしてくる。
そのわがまま度合いの例をあげると、音響に対しては使用する音楽についてのわがままが一番多い。本番の数日前にここに一曲ほしいなぁと音楽の追加要求をしてきたり、一度決まった曲を、練習で散々聞いたお陰で演出家自らが飽きてしまい、他の曲に差し替えようとするなど、その場の気まぐれのような?要求にいつも泣かされている。
最近は演出家のそのような特性に慣れはしたが、それでも公演間近の変更などは、かなり堪える。
私のようにかなりアバウトなプランナーでさえ、それなりに何日もかけて下準備して当日を迎える。
それが演出家の一言でボロボロに崩れ去ってしまうのである。私の音響プランの準備方法についてはいずれ書くが、最悪の場合、本番前夜に徹夜で編集作業をしたりする。
そんな状況で本番を迎えればオペレートは、かなりきつい体調で行わなくてはならない。とても精神的にも重圧だ。
でもそんなにきつい状況を迎えることが解っているのにも関わらず演出家のわがままには応えてしまう。
何故か?
演出以外の各スタッフは各々の感性をもって、作品作りに参加している。
しかし、その過程において己の理想の完成形を追い求めるあまり専門分野のアカデミックな感覚にとらわれて物事を見てしまう傾向がある。
それに対して演出家の感性と言うのはある意味一般の感覚からかけ離れたかなり独特なものがあり、時に見当外れにも思える演出家のわがままな要求が、舞台にはめ込んでいった時、なんともいえない効果を生み出すことがある。
音響の例で言うと、最初はとても違和感を感じながら使った曲が妙に舞台の隠し味的に印象的に残ったりする。
そんな演出家が引き出す新鮮な感覚にはとても驚く。時には例え稽古段階であっても、自分が音響オペをしながら一観客として感動し涙をこぼすことさえある。
その舞台に参加してよかったと思える演劇人としての至福を感じる時がある。
こんな至福を時に垣間見てしまうと、その可能性を信じてスタッフは時に無謀とも思える演出家の要求に応えてしまうのである。
もちろん全ての要求が至福に繋がるわけではなく、無意味な演出と思った要求がやはり無意味のままである場合も多々ある。
しかしその演出が本当に良いか悪いかの判断は、舞台として完成させてみるまでなかなか見えこないので、演出家の要求に素直に応えるという行為は各スタッフにとって大いなる賭けなのである。
(続く)