舞台は無限の空間

個人的には演劇が行なわれる場所というのはあまり限定を持たないほうがいいと考えているが、そうは言っても実際に演劇が一般的に多く行なわれるのは劇場やホールといった建物の中の限られた空間である。

しかし建物が限られた空間であるからといって、そこで表現されるものが建物と一緒に限定されているわけではない。

舞台にはどんな環境の舞台であっても無限の要求が突きつけられる。ピアノ一台置けばほぼいっぱいになってしまうような小さな舞台に、そこに大砂漠の表現が求められる時がある。

オーケストラが置けるような空間で三畳一間の生活を演じる時がある。 元の空間によって向き不向きの多少の特性はあっても、基本的には元の空間に関わらず、ありとあらゆる空間表現が求められるのである。

 

ではその限定された空間の中で、どうやって無限あるいは限られた狭い空間を表現するのか?

 

演劇の舞台上で空間を表現するには、主に舞台美術・音響・照明の三つの要素が効果を発揮する。

まず舞台美術の場合、空間や情景を表現するために舞台上に様々なモノが置かれる。 畳の部屋がそのまま置かれたり、ベンチやポストなどの小物、また、時には訳のわからない現代的美術的なオブジェが置かれたりもする。 このような具体的なものが置かれることにより、その舞台の情景が明確になる。しかし、舞台美術は視覚的に具体的なモノを用意してしまう分、逆にその空間が用意されるものによって限定が加えられてしまうという欠点もある。

また物理的限界があるため、無限に空間を用意するわけにはいかなくなってしまう。三畳の部屋の舞台美術は作れたとしても砂漠の空間の構築は難しい。舞台一面に砂を敷き詰めたところでそこは巨大な砂場でしかなく、その先の砂の地平線まで砂を敷き詰めて作るわけにはいかない。舞台によってはパネルに絵を描いて風景の奥行きを出しているセットも見かけることもある。なかなか良く出来たものもあるが、やはりそこには表現上の限界がある。

さらにほとんどの舞台では舞台の途中で情景を変えるために場転というものを行なうが、舞台美術の場合、どうしても物理的に情景を一瞬で変えるというわけにはいかない。 昔、ドリフのコントでセットが一挙に片付けられていったというシーンを思い出して頂けばわかると思うが、当時は素早いなぁと感心して見ていたものの、あれとて数十秒を要し、例の名物の繋ぎの音楽がかかっていたことは記憶にあるとは思う。

実は劇場と呼ばれる建物の舞台装置のほとんどは、この場転のために造られているものといっても過言ではない。

例えば豪華なオペラ劇場では、舞台上のスペースと同じ広さの空間が、舞台奥、左右の袖、舞台上空、奈落などに用意されていて、そこに巨大な舞台美術を予めそれぞれ準備しておき、場面転換でメインの舞台のものとそのまま入れ替えるような仕組みを持っている。

年末の紅白歌合戦で次々と新しいセットが登場するのを感心して見ている方も多いとは思うが、あの会場のNHKホールもやはりオペラ劇場のようなのスペースと構造を持っているのである。

しかし世の中そんなに豪華な劇場ばかりではないので、中小規模の劇場では、様々な工夫で場転のための構造を準備している。回り舞台(回転迫という)や吊りモノのためのバトン類はその例である。 回転迫の上にリバーシーブルの舞台美術を組み、迫を廻して舞台を入れ替えたり、背景パネルをバトンで吊って、場転の時に別なものと入れ替えるなど、それぞれに工夫を凝らしている。

劇場の進歩はこのような場転のためにあったようなものである。

しかしどんなに豪華な設備を用意しようとも、また条件が限られる劇場であればある程、舞台美術を場転させる情景設定は表現範囲を狭められてしまう。

そこで舞台美術による具体的な視覚表現をあきらめ、ある程度抽象的な表現で、客のイマジネーション部分に頼った表現方法として、照明と音響の組み合わせによる空間の表現方法がある。

極端な話、一切の舞台美術を排除してしまってもよい。そうしてしまえば、少なくとも物理的な面での場転の制約はなくなる。

こだわる音響の個人的自負になってしまうが、この音響と照明の組み合わせ方次第で、例え舞台美術がなくとも、あらゆる空間の表現が可能と私は思っている。

地底の奥底から、巨大な宇宙空間まで、この二つの要素のみでも表現ができると思う。 もちろん客側のイマジネーションに頼る部分も大きいので、現実に存在せず、全く想像し難いような空間の創造は無理かもしれないが、およそ想像のつく範囲の空間なら表現に不可能はないと思っている。

もちろん抽象的な表現とは言っても、空間表現というからにはやはり視覚的要素を支配する照明の持つ力は大きい。

前後上下左右から被写体・舞台に光を当てて、光の絞り加減、当て方加減で、視覚的に見える場所と見えない場所を創り出し、光と影によって無限の空間を生み出す。

そうすることによって空間を自由自在に操れる。照明の持つ力のすごいところである。

しかし、その照明に音響効果を加えることによって、さらに無限の空間を創り出すことができる(と私は思っている。)。

音響が行なう表現について、まず空間的拡がりに関して言えば、実は音響も照明と同じことをする。

照明家が灯体を吊るすように、前後上下左右にスピーカーを設置し、そこから出す音の絞り加減、響き加減で、聴感的に空間の広がりや、形状を表現する。 場合によっては残響や音の遅延などの装置を組み入れて、そこにある壁や物の材質を加味し、音響空間を観客の眼前(耳前?)に創出する。

さらにそれらの空間の拡がり的要素でに設定に加え、効果音など鳴らす音をチョイスすることにより空間をさらに情景に合わせて細かく創り作り分けられる。

このように音を選択し、鳴らし分けることによって、客はそこが室内なのか室外なのかを自然に判断し、頭の中で像を結んで舞台上の空間を感じ分けてくれる。

もちろん通常の舞台では更にそこに照明が加わわるので更にイメージは一層具体的な情景に近づいてくる。

 

ただし、演劇という世界においては情景が具体性を持って、リアルな情景に近づけばよいのかと言うと、個人的には必ずしもそうではないような気がする。

最近では具体的な映像を直接投影してみせる方法が流行りでよく見かける。

情景を説明をする上で視覚的に分かりやすくて便利なようであるが、視覚的に具体的な分だけ、無限という可能性を奪い、客の想像力を働かす余地を奪っているような気がする。

そんな理由で映像を使う手法は個人的にはあまり好きではない。

劇場という空間はそこまで具体性を持ってしまうとつまらない空間になってしまう気がするからである。

劇場という空間には、表現の可能性が無限である分だけ、空間をよりイメージに近づけるための表現方法も、やはり数限りなく存在し、芝居の中身や情景によって、その都度芝居に併せて創造していくので、一定の方法論のようなものは存在しないかもしれないが、その分だけスタッフとしての音響や照明の、さらには演劇人としての創造性という醍醐味がそこにある気がする。

もちろん演劇というジャンルにおいては、役者として舞台に立ち表現することが、演劇の醍醐味の本流であることには違いのないことであるが、それを支えるスタッフとして、何も無いただの真っ暗の空間に、ありとあらゆる無限の空間を創造する、そんな夢のような可能性を追いかける生き方もまた格別である。

そう考えさせてしまうほど、劇場という空間はもの凄く魅力的で、不思議な空間である。 さあ、あなたも一歩劇場に踏み入れたら目を閉じて、耳を澄ましてください。あなたが創造する舞台には何が見えますか? (続く)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください